徳川家が命じた築城から
明治の廃城まで
尼崎城関係年表
- 元和3(1617)年 7月25日
- 譜代大名戸田氏鉄(うじかね)が近江膳所ヶ崎より尼崎へ5万石の大名として所替えを命じられる
- 10月14日
- 戸田氏鉄が尼崎へ入部 幕府から新城を築くよう命じられた
- 12月
- 本興寺開山堂・戒壇院などが寺町に移築 この年氏鉄の入部に従い、全昌寺・常楽寺・常隆寺等が膳所から尼崎へ移転
- 元和4(1618)年 1月〜3月
- この頃、尼崎城築城着工か
- 元和5(1619)年 9月8日
- 将軍徳川秀忠が尼崎城を視察
- 元和9(1623)年 夏
- 将軍徳川家光が尼崎城を視察か
- 寛永12(1635)年 7月28日
- 戸田氏鉄は10万石で大垣へ所替え、青山幸成(よしなり)が掛川から尼崎へ5万石の大名として所替え
この年戸田氏所替えに伴い寺町の全昌寺・常楽寺・円通寺・常隆寺・南光院・般若院が大垣へ移転
- 寛永20(1643)年 6月7日
- 青山幸利(よしとし)が尼崎藩主になる
- 寛文2(1662)年 5月1日
- 西日本一帯大地震 尼崎城天守が傾き、多聞櫓・石垣などが破損
- 寛文4(1664)年 6月19日
- 幕府は尼崎城櫓・石垣などの改修を命ずる 南浜と西三の丸の隅櫓5棟を改める この年築地町建設完成
- 寛文9(1669)年 5月1日
- 出屋敷地割り始まる(5月中完了)
- 貞享元(1684)年 9月29日
- 青山幸督(よしまさ)が尼崎藩主になる
- 宝永4(1707)年 10月4日
- 大地震のため尼崎城天守・櫓など破損
- 宝永7(1710)年 10月16日
- 青山幸秀(よしひで)が尼崎藩主になる
- 宝永8(1711)年 2月11日
- 青山幸秀は飯山へ所替え、松平忠喬(ただたか)が掛川から尼崎へ4万石の大名として所替え
- 享保元(1716)年 9月18日
- 尼崎城の堀浚えを幕府に出願
- 享保16(1731)年 〜 享保19(1734)年
- 出雲屋八兵衛・水堂屋嘉兵衛・姫路屋新兵衛などが堀浚えの人足を請け負う
- 寛延4(1751)年 3月20日
- 松平忠名(ただあきら)が尼崎藩主になる
- 明和4(1767)年 2月20日
- 松平忠告(ただつぐ)が尼崎藩主になる
- 明和5(1768)年
- 尼崎城下・兵庫津町の町民5,000人が堀浚え人足として従事
- 明和9(1772)年
- 本丸に式台・御書院・御帳之間・御居間などあり
- 安永6(1777)年 8月
- 石垣孕みのため修築、西三の丸兵庫橋櫓建て直しを出願
- 安永7(1778)年 12月
- 石垣孕みのため修築、西三の丸兵庫橋櫓建て直しを出願
- 文化3(1806)年 2月10日
- 松平忠宝(ただとみ)が尼崎藩主になる
- 文化10(1813)年 4月14日
- 松平忠誨(ただのり)が尼崎藩主になる
- 文化10(1813)年 7月9日
- 貴布祢神社で櫓上棟祈祷(同年10月10日にも)
- 文政8(1825)年
- 天守修復
- 文政12(1829)年 10月2日
- 松平忠栄(ただなが)が尼崎藩主になる
- 弘化3(1846)年 1月28日
- 尼崎城本丸御殿出火焼失
- 弘化4(1847)年 6月13日
- 尼崎城本丸御殿再建、鎮殿祭
- 嘉永7(1854)年 11月4日
- 大地震のため尼崎城御殿・櫓破損
- 安政2(1855)年 7月4日
- 地震のため壊れた櫓・渡櫓・多聞・冠木門の修復を幕府に出願
- 文久元(1861)年 8月6日
- 松平忠興(ただおき)が尼崎藩主になる
- 明治6(1873)年
- 尼崎城の廃城が決まる
※年表は尼崎市教育委員会発行「尼崎城の歴史」より転用
元和3(1617)年、江戸幕府の命により、譜代大名・戸田氏鉄(うじかね)が尼崎藩主に就き、新たに尼崎城を築きました。明治6(1873)年の廃城令後に取り壊されるまで約250年もの間、大坂の西の守りとしてその雄姿を誇った尼崎城の歴史を紐解いてまいります。