江戸時代、
戸田・青山・(櫻井)松平の
3家12名が尼崎藩主に

尼崎は大坂に近く、また西国の海陸交通の結節点にあたるため、江戸幕府は軍事的にも経済的にも重要な地と考えていました。
実際、尼崎城は四層の天守を持ち、三の丸まであり、その規模は阪神甲子園球場の約3.5倍にもなります。実は兵庫県下で天守があった城は、姫路城と尼崎城の2つだけだったのです。天守台は造られても、その上の建築物まで造ることを幕府は許可しませんでした。海際に建つその姿は、さぞかし外様大名の驚異となったことでしょう。
大坂の「西の守り」としての役割を務める尼崎藩には、譜代大名が配置されました。
それが、戸田・青山・(櫻井)松平の3家12名の尼崎藩主となります。
徳川家康の厚い信頼を得た戸田氏

重要拠点であった尼崎には最初から優れた人材が配されました。尼崎城築城は初代藩主・戸田氏鉄(うじかね)によるものです。近江国膳所や、尼崎での築城の実績を認められた戸田氏鉄は、大坂城の普請総奉行となって活躍しました。


「左門殿川」の名の
由来となった
戸田氏鉄


優れた政治的手腕をもった青山氏

初代・幸成(よしなり)から四代、尼崎藩主を務めたのが青山氏です。幸成は元服時から2代目将軍・徳川秀忠の小姓を務め、秀忠が将軍の時代には後代の老中の役を務める幕府の高官でした。尼崎に来たのは、3代目将軍・家光の時代になってからです。


尼崎城が大好き!
3代目城主・青山幸利
「西の守り・尼崎藩」を最も体現したお殿様が、3代目城主・青山幸利(よしとし)です。
大坂城代の従兄弟の相談に乗るため大坂に頻繁に通い、摂津や播磨など近くの国の動向を探るため、忍者(忍目付)を雇っていました。近国への派遣は急を要することが多かったのですが、その時は忍目付を庭に呼んで直に用を申しつけ、潤沢な経費を自ら手渡したと伝えられます。近隣地域の情報探索を藩主が率先して実施していたことが伺われます。
また、幸利は尼崎城天守が大好きで、毎朝眺めては、時折感動の涙をこぼしたという逸話も残っています。

徳川氏の分家のひとつ松平氏(櫻井松平氏)

尼崎藩主となった松平氏は、徳川将軍家の多数ある分家のひとつで、櫻井松平と称されています。戦国時代以来の徳川家の家臣である大名達と同じく、譜代大名に格付けされています。初代の忠喬(ただたか)から七代にわたって明治の廃藩まで尼崎藩主を務めました。


多くの俳句を残した、風流大名・松平忠告
多くの俳句を残した
風流大名・松平忠告
松平忠告(ただつぐ)は、明和4(1767)年、26歳の時から、文化2(1805)年に64歳で没するまで、尼崎藩主の地位にありました。忠告は俳名を亀文(きぶん)、俳号を一桜井(いちおうせい)と称し、多くの俳句を残しています。若くして江戸の檀林七世・谷素外(号:一陽井)に師事し、30代で谷素外編の句集『徘徊名所方角集』に収録された次の句が、東難波町の八幡神社境内の句碑に刻まれています。
(枕詞) 「難波の梅、難波の里にあり」 雪と見て また豊年か 村の梅 亀文
櫻井神社境内の句碑には、以下の俳句が刻まれています。
先ず霞む 竈々や 民の春 亀文
また、忠告の子で尼崎藩主の忠宝(ただとみ)も亀幸(ぎこう)の俳名をもち、忠告の俳句一五九句を収めた『一桜井発句集』を編集・刊行しています。



社会貢献に努めた
尼崎藩最後の藩主・
櫻井忠興
日本赤十字社の前身、博愛社の設立にいち早く賛同したのが、尼崎藩最後の藩主だった櫻井忠興(ただおき)です。明治10(1877)年の西南戦争に際して傷病者救護のため、博愛社の創設が企画されると、急遽上京し、佐野常民や旧松平諸侯の華族を中心とする発起人の一人に加わります。
さらに東京の櫻井家屋敷を仮事務所に提供し、多額の資金を寄付しただけでなく、自ら医員たちとともに戦地の鹿児島を視察し、長崎の陸軍病院での治療活動にも携わったのでした。負傷者の中には、御大名がはるばる治療に来てくれたと感激して涙を流す者さえいたということです。
※忠興は、慶応4(1868)年、朝廷の指示により松平姓から櫻井姓に改姓しました。


歴代 尼崎藩主
藩主名 | 尼崎藩主襲封 年月日 |
在位年数※1 |
---|---|---|
戸田氏鉄 | 元和3(1617)年 7月25日 |
19年 |
青山幸成 | 寛永12(1635)年 7月28日 |
9年 |
幸利 | 寛永20(1643)年 3月26日 |
42年 |
幸督 | 貞亨元(1684)年 9月29日 |
27年 |
幸秀 | 宝永7(1710)年 10月16日 |
1年 |
松平忠喬 | 宝永8(1711)年 2月11日 |
41年 |
忠名 | 寛延4(1751)年 3月20日 |
17年 |
忠告 | 明和4(1767)年 2月20日 |
39年 |
忠宝 | 文化3(1806)年 2月10日 |
8年 |
忠誨 | 文化10(1813)年 4月14日 |
17年 |
忠栄 | 文政12(1829)年 10月2日 |
33年 |
忠興 | 文久元(1861)年 8月6日 |
11年 ※2
11年
※2 |
※1 いずれも尼崎藩主としての在位年数を示す。
※2 明治4(1871)年に藩知事を免ぜられた時までとした。
初代城主となったのが、徳川家康の近習として仕え、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いにも従軍した戸田氏鉄。彼には大坂城修築や、島原の乱においての戦功など様々な活躍エピソードが残されていますが、なかでも、尼崎城築城とともに行った治水事業での功績が讃えられています。神崎川分流の拡張改修築堤を行い、領民を水害から救ったことで、皆から愛されたお殿様は、尼崎市と大阪市西淀川区佃の境にある「左門殿川」に、今もその名を残しています。