大坂城の西の守りとして
築城された尼崎城

大坂夏の陣後、江戸幕府は大坂を直轄地として西国支配の拠点とするため、元和3(1617)年、譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)に尼崎城を築城させ、大坂の西の守りとしました。
尼崎城は、翌元和4(1618)年から数年の歳月をかけて築造されました。3重の堀と4層の天守からなる城で、その規模は、現在の北城内・南城内の約300メートル四方、阪神甲子園球場の約3.5倍にも相当する広大なものでした。
幕府は一国一城令により、各地の城郭を破却する政策を推し進める一方で、尼崎には5万石の大名の居城としては大きすぎる城をあえて造らせています。このことからも、幕府がいかに尼崎を重要視していたかが伺われます。
また、築城工事と同時に城下町の整備も開始され、8つの町からなる尼崎城下町が完成。多いときには2万人近い人々が暮らす、阪神間随一の城下町として大いに栄えました。
尼崎城は、戸田氏・青山氏・(櫻井)松平氏と、代々譜代大名が藩主を務める尼崎藩政の中心として、また、城下町尼崎のシンボルとして、約250年もの間、威容を誇りました。その長い年月の間には、修復工事を常に行い、城を保つ努力が繰り返し行われていたことがわかっています。
各地の城の天守が倒壊、消失する中、尼崎城天守が江戸時代を通して変わらぬ姿であり続けたことは、奇跡的でもあります。


江戸時代は
神戸も尼崎だった!

戸田氏時代〜青山氏時代初期の西摂尼崎藩領村々

尼崎城の設計について

(櫻井神社蔵、尼信会館寄託)
築城当時の尼崎城は、庄下川を西の外堀とする3重の堀と、南の海とに囲まれていました。尼崎の地勢を生かした築城で、戦国時代以降によく見られるようになった平城です。
中世から湊町として発展していた尼崎町を城下町に取り込む一方、当時の幹線道路である中国街道上に築かれたことから、海上と陸上の両方の軍事に焦点を当てたお城といえます。
城の縄張りは、本丸・二の丸・三の丸を配していました。二の丸は本丸東側を松の丸、南側を南浜とに分け、三の丸は東西に2つありました。本丸を中心として時計回りに、二の丸、松の丸、南浜、西・東三の丸へと外側に広がる渦郭式で、最重要拠点である本丸へは容易に近づくことができない構造でした。さらに、主要な門の内側には枡型と呼ばれる方形の空間を設けたり、天守と物見台である櫓台を17か所も構えるなど、外敵が城へ侵入しにくい仕組みが様々に設けられ、行政機能を重視した平城でありながらも、軍事施設としての防御機能を備える工夫が各所に凝らされていました。

(尼崎市教育委員会作成)
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- 本丸は城の中心に位置する約100メートル四方の郭(くるわ)で、北東隅に4層天守、ほかの3隅には3層の武具櫓・伏見櫓・塩噌櫓が配され、武器庫・食料庫などとして使用されたと考えられます。本丸御殿は城主の住居であり、同時に藩の政務や重要な儀式を執り行う場所でもありました。御殿の北東部には身分の高い客人をもてなすための「牡丹之間(ぼたんのま)」「菊之間(きくのま)」という専用の湯殿と茶室を備えた貴賓室が設けられており、両部屋の四方には、金襖・金障子が用いられたことから「金之間(きんのま)」と呼ばれました。
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- 二の丸御殿をはじめ、米を貯蔵する「御城米蔵(ごじょうまいぐら)」、米蔵を警備する「御城米番所(ごじょうまいばんしょ)」、馬を飼っておく「厩(うまや)」が建ち並んでいました。
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- (櫻井)松平氏藩主時代には、尼崎藩の家老5名の屋敷が並んでいたことから「五軒屋敷」と呼ばれる家老屋敷がありました。また、「作事小屋(さくじごや)」「鍛治蔵」「すさ(土壁に混ぜる藁や草)蔵」「畳蔵」などがまとめられ、城内の建物や調度類の修繕を行うための道具や材料を保管する場所になりました。
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- 虎之門で本丸とつながり、鉄砲や弓の練習をする「的場(まとば)」、火薬を貯蔵する「煙硝蔵(えんしょうぐら)」などがありました。
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- 主に、南浜の重臣に次ぐクラスの家臣たちの屋敷がありました。それ以外の家臣たちの屋敷は、城の周辺や城下西側に設けられた東・西の武家屋敷に配されました。
尼崎城天守について

(尼崎市教育委員会所蔵)
尼崎城の天守は、4層4階の大天守に、西側の2階建て多聞櫓(たもんやぐら)の小天守が付属する複合式天守と呼ばれる形式でした。約12メートルの天守台石垣の上に、約18メートルの高さでそびえる層塔式の大天守は、唐破風(からはふ)・千鳥破風(ちどりはふ)の屋根飾りをつけるなど装飾的な意匠が凝らされ、シンプルながらも堂々とした美しい外観を持つ、尼崎のシンボル的存在でした。
天守は本来、戦争時の見張り台や籠城時の指令所として発展しましたが、軍事的な性格が薄れた江戸時代においては、もともと天守を持たない城や、天守喪失後には再建されない城が多くありました。尼崎城の天守も非実用的なものでしたが、外観を意識した装飾的な美しい姿は、権力の象徴であると同時に、江戸時代の太平の世を象徴するものでした。


- 鯱(しゃち)
- 火除けとして、屋根などの棟の両端に据えられている。
- 鬼瓦
- 屋根の棟の端に置く大きな瓦。守り神とされている。
- 千鳥破風
- 屋根の流れ面に起こした三角形の破風のこと。
- 唐破風
- 反り曲がった曲線状の破風のこと。
尼崎藩は尼崎城を拠点とし、摂津国川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡(現在の尼崎市・宝塚市・西宮市・芦屋市・神戸市南部・伊丹市の一部・川西市・猪名川町の南部)の、主に沿岸部を領していました。なんと西は現在の神戸市須磨区の辺りまであったそうです。