尼崎城下町は
リッチだった!?

(加地秦雄氏文書/尼崎市立地域研究史料館寄託)

江戸時代にも民衆の力で再建した!
弘化3(1846)年、松平忠栄(ただなが)が藩主のとき、本丸御殿が全焼する事件がありました。本丸御殿とは、藩主の住居、尼崎藩の政庁、迎賓館の役割も兼ねた尼崎城の心臓部。再建が急がれましたが、当時の尼崎藩は、藩主が財政破綻を宣言するほど財政難に陥っており、とても再建に取り掛かれる状況ではありませんでした。
ところが、領内の村々から、続々と冥加金(みょうがきん)が献上されたのです。冥加金はもともと特権を得た謝礼として納める税ですが、尼崎藩の窮状を知った領民たちが日頃の感謝を込めて再建費用の献金を始めたわけです。火事からおよそ半年で工事が始まり、約1年後に完成。尼崎城は、皆が力を合わせてできあがったお城だったのです。
昔とは場所が異なる!?
現在の尼崎城は、外観は江戸時代当時の姿をそのまま再現していますが、実は建っていた場所と向きが異なります。元の城跡は、現在の位置から南東約300メートルの旧城内中学校(博物館へ改修工事中)などの敷地にありました。そのため同地での再建は難しく、現在の尼崎城址公園が選ばれたのです。
また、よりお城らしさを演出するため、天守の付け櫓の配置も当時とは変えています。

(尼崎市教育委員会蔵)

寺町の成り立ち!
江戸時代、尼崎城、城下町とともに整備されたのが、尼崎駅からほど近い3.9haに11の寺が軒を連ねる「寺町」。それまで町中に散在していた寺を一画に集めたのは、町から距離をおいて寺の影響力を弱めるとともに、尼崎城に対する防備の役割をもたせるためと言われています。今も界隈を歩くと、本堂や三重塔などがズラリと並び、江戸時代当時の面影を偲ばせます。豊臣秀吉をはじめ有名武将の逸話がある寺や、国の重要文化財に指定されたものもあり、歴史散策におすすめです。
寺町に尼崎城のマンホールを発見!
寺町の全昌寺付近には、尼崎城があしらわれたマンホールがありますので、ぜひ見つけてみてください。

尼崎城下町は
リッチだった!?
尼崎藩は譜代藩として成立後、幕命によって尼崎城築城とともに城下町も建設。この城下町は、現在の出屋敷駅東側から大物駅西側にかけての広大なものでした。さらに尼崎藩は神戸の辺りまでも統治し、綿や菜種の商品作物をはじめ、灘の酒造だけではなく城下町にも酒造があり盛んでした。築地には漁師が住み、大正時代までは魚市場もあったそうです。徳川幕府によって播磨国に領地替えされるまで、裕福な藩として大いに栄えました。

(加地秦雄氏文書/尼崎市立地域研究
史料館寄託)
江戸時代にも
民衆の力で再建した!
弘化3(1846)年、松平忠栄(ただなが)が藩主のとき、本丸御殿が全焼する事件がありました。本丸御殿とは、藩主の住居、尼崎藩の政庁、迎賓館の役割も兼ねた尼崎城の心臓部。再建が急がれましたが、当時の尼崎藩は、藩主が財政破綻を宣言するほど財政難に陥っており、とても再建に取り掛かれる状況ではありませんでした。
ところが、領内の村々から、続々と冥加金(みょうがきん)が献上されたのです。冥加金はもともと特権を得た謝礼として納める税ですが、尼崎藩の窮状を知った領民たちが日頃の感謝を込めて再建費用の献金を始めたわけです。火事からおよそ半年で工事が始まり、約1年後に完成。尼崎城は、皆が力を合わせてできあがったお城だったのです。

昔とは場所が異なる!?
現在の尼崎城は、外観は江戸時代当時の姿をそのまま再現していますが、実は建っていた場所と向きが異なります。元の城跡は、現在の位置から南東約300メートルの旧城内中学校(博物館へ改修工事中)などの敷地にありました。そのため同地での再建は難しく、現在の尼崎城址公園が選ばれたのです。
また、よりお城らしさを演出するため、天守の付け櫓の配置も当時とは変えています。

(尼崎市教育委員会蔵)
寺町の成り立ち!
江戸時代、尼崎城、城下町とともに整備されたのが、尼崎駅からほど近い3.9haに11の寺が軒を連ねる「寺町」。それまで町中に散在していた寺を一画に集めたのは、町から距離をおいて寺の影響力を弱めるとともに、尼崎城に対する防備の役割をもたせるためと言われています。今も界隈を歩くと、本堂や三重塔などがズラリと並び、江戸時代当時の面影を偲ばせます。豊臣秀吉をはじめ有名武将の逸話がある寺や、国の重要文化財に指定されたものもあり、歴史散策におすすめです。

寺町に尼崎城の
マンホールを発見!
寺町の全昌寺付近には、尼崎城があしらわれたマンホールがありますので、ぜひ見つけてみてください。

尼崎藩は譜代藩として成立後、幕命によって尼崎城築城とともに城下町も建設。この城下町は、現在の出屋敷駅東側から大物駅西側にかけての広大なものでした。さらに尼崎藩は神戸の辺りまでも統治し、綿や菜種の商品作物をはじめ、灘の酒造だけではなく城下町にも酒造があり盛んでした。築地には漁師が住み、大正時代までは魚市場もあったそうです。徳川幕府によって播磨国に領地替えされるまで、裕福な藩として大いに栄えました。